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Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

『ワンダフルワールドエンド』

  
 大森靖子のMV制作から広がった作品。橋本愛はインタビューで「これを映画とはまだ呼べない、自分からはそう言いたくない」というような発言をしていて、きっとそれはこの作品が大森の音楽を中心に成立しているものだからという考え方からきているのかなと思っている(彼女自身が大森のファンらしいということも無関係ではないだろう)。それでも、音楽を抜きにしても(あるいは加えても)それぞれがそれぞれに必要な存在として自立してそこにありながら、それらがトータルとして1つの世界を成立させていて…いや、確かに大森が鳴らしている音楽を映像として表現したという構造がないとは言わないけれど(後述するが、主題歌が物語の全てを包み込んでもいる)、それでもこれは「映画として」ちゃんとそこにあると思う。ただ、実際には呼び名はなんでもいいのだ。これは誰かに何かを語らせる、間違いのない芸術そのものであるのだから。
 
 物語では売れないモデルとして葛藤し続ける不器用な主人公・詩織(橋本)の「実存の危機」が昇華される様が描かれる。ただ、そこまでの道のりも昇華の景色も一筋縄ではいかない。前半では少女たちの自意識が肥大化した姿やそれらを搾取する大人の欺瞞、そして正しくモラトリアムを謳歌する劇団員の姿など、抜き差しならなくなった人々の様子があまりに現代的で自然な形で映し出されている。しかし、詩織の1番のファンである亜弓(蒼波純)と彼女とを引き裂いた亜弓の母親の感情を爆発させるシーン、そうしてつながりを断たれた詩織がスマートフォンを放り投げるシーン以降は、徐々に白昼夢とジョークの間を揺らぐファンタジーな世界へと移行していく。それはまるで自身が何者であり何をなすべきなのかということをついに掴みきれずに実存の危機に陥った主人公が、精神世界へと逃げ込んでいく様を知らぬ間に追体験させられているかのようですらある。

 そう、詩織がツイキャスで涙ながらにファンと通りすがりと「詩織という存在」に別れを告げた先に行きつくのは、亜弓との間に築いた圧倒的な肯定の世界なのだ。では昇華はどこにある?こうして自閉していくことが危機を乗り越えることになるのか?そうだとするならそれは間違っていないか?確かにこのストーリーが淡々と進んでいくならばそれは展開として陳腐だし、何より実存は自閉して死を迎えるだろう。だがそうはならない。

 ラストシーンで詩織と亜弓は突然互いを「愛ちゃん」「純ちゃん」と本名で呼び合う。この瞬間、僕は泣いてしまった。それまではそれぞれの「わたしのせかい」に住まわせた存在に対して憧れとも恋慕ともつかない感情を抱いていた2人が、それを越えて1人の人間存在としての敬意を互いに抱いたことの表れだと思えたからだ。名前を呼び合うこと、すなわち現存在への敬意と尊厳、それこそが危機に陥った実存を再び立ち上がらせるものだったのだ。このことを描いてくれた感動は筆舌に尽くしがたい。加えて、それが高揚と押し付けにまみれたメッセージにつながるような高いテンションにたどり着いて終わることには決してならないというのがまた素晴らしいところなのだ。
 
 名前を呼び合った2人が花畑を駆け出していく。すると橋本が「来ないで」と観客に語りかけ、僕らを置き去りに2人の世界に沈澱していく。ここであれ?と思う。肯定の感動は確かにあるけれど、それを手にした末の結論がこれでいいの?と。しかもその末に提示されるのは、物語の途中で頓挫したはずの2人でアイドルをやるという計画が実を結んだかのようなセリフと1枚のポラロイド写真。この着地に混乱は深まる。せっかく現存在を肯定できたにもかかわらずこれでは…。あるいはまたどこからか夢や並行世界の話へと迷い込んでしまっていたのだろうか?それとも先の開眼は眠り続ける詩織が観た一瞬の光(それは消える直前に最も明るく燃えるろうそくのようだ)なのか…。
 
 その逡巡からは名前を呼ばれた実存でさえも不確定な揺らぎをはらんでいるのだということを突きつけられているようで、いてもたってもいられなくなる。それでも、この揺らぎでさえも最後は大森の音楽でしっかりと回収されていく。エンドロールで流れる『呪いは水色』のコーラスはこうだ。「生きている 生きてゆく 生きてきた 愛の隣で 私達はいつか死ぬのよ 夜を越えても」そう、「愛」の隣で。これはややもすると蒼波の視点ではなかったか。いくつもの夜を越えても、私たちはいつか死んでしまう。その逃れようのない現実の中にこの話はちゃんといる。だからやっぱり、「詩織」が「愛」として実存の危機を乗り越えたのは、決して夢の中の話や逃避の末の自閉なんかではないんだ。これがこの作品での昇華である。何者でもないものたちに、それでも生きていくための光を見せてくれているという意味において、とても優しい作品でもあると言えるし、もちろんそれが故に残酷でもあるとも言えそうだ。
 
 そして僕はここでの橋本の「演技」にすっかり心酔している。配信を行う姿も「客観性のなさ」が見事だったし、カメラ越しに本音を語るシーン(亜弓に対する気持ちの吐露とモデル引退宣言の場面だ)も素晴らしかった。肥大化していた自意識が純粋な敬意に接するうちに自分自身ではなく自分の大切なものへと向けられていく変化を本当によく演じ切っていたと思う。彼氏との喧嘩のシーンでも、対象にだけではなく自分の置かれている状況に対する苛立ちも含めた憤りの感じがよく出ていた。ちなみにこの彼氏は決して悪人ではなく、だからこそ抜き差しならなくなった存在として主人公の1人にもなれはずだったのだが、その言葉や選択のウソくささを「なに気持ちよくなってんだよ!」と看破され、劇中から排除されてしまう(ずっとベランダで放置されたままであることを観客にすっかり忘れられてしまう始末である)。一方で詩織の事務所社長は感情のない「相手を思いやっているかのような物言い」が完全に悪人のそれであり、最後まで謎の存在感を醸し出している。それは彼氏の存在の希薄さと対照的である。主な登場人物の中に男性はこの2人だけだ。この対照は意図的だろう。その対照性の要因は同根であることからしても。
 
 対照的といえば、中盤で詩織が亜弓を追いかけるシーンとラスト手前で亜弓が詩織を追いかけるシーンも分かりやすい対照だ。そしてそれも対照でありながら実際には同根である。敬意を含めた「本当に大切なもの」が目の前に、自分のために降りてきたときでさえも「幸せになる準備ができていない人間」には目をつむり耳をふさいで気づかぬふりをするか、背を向けて逃げ出すかしか選択肢がないのだ。それでもこの2人は互いに追いかけ合うことでその準備を整え、主人公はそうして実存の危機を乗り越えた。敬意・尊厳・愛とはなんと尊いものであろうかと思う。本当は自分ひとりでも尊厳をちゃんと生成できればいいと思うし、僕だってそれを目指しているのだけれども、もしかしたらそういうのは限られた人間の持ち物なのかもしれないなと最近は考えるようになっている。
 
 ファンタジーだと思っていた映像に一体いつから橋本愛蒼波純という現存在が映し出されていたのだろうかと何度も見返しているのだけれども、結局は自分自身の実存の問題が引っ張り出されてしまうのだった。そのたびに泣いてしまう。君が、僕の名前も本当の名前で呼んでくれたら良かったのにと。


映画『ワンダフルワールドエンド』予告編