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Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

3月の中の人

 WBCプロ野球をいつもより余計に見られるというのは嬉しいことであった。野球はよくできたコンセプトアルバムに見えることがある。筋が通っているというか、因果関係がすっきりしているように見える試合は結果に関わらずその点の満足度が高い。静かに始まったとしても展開によっては劇的な幕切れが訪れるなんてこともよくある。そういう意味では人との出会いや別れもそういうものなのかもしれないなどと考える。つまり、入口と出口の温度は違っているのが普通なのだ。そう、僕らの関係というのは劇的に始まったからといって劇的に終わらなければいけないということはないのだ。でもアルバムや野球と違うことも当然ある。その1つは、それらには明確な終わりがあるけれど人づきあいには必ずしもそれが必要ではないということだ。終わるとも終わらぬとも知れぬようにフェードアウトしていくものの多いこと多いこと。そうかと思えばふとしたきっかけでつながりが復活することもある。だからそれは「ゲームセット」のようなものではなくて、「関係が眠りにつく」とでも形容できるのかもしれない。
 
 
 人間関係の話を続けよう。結婚式に出席すると結婚願望が強まるらしいという話を聞いて、それは式を挙げたい欲が上がるだけで本質の部分とは異なるのではないかなあとずっと思っていたのだが、今回出席したものは(年齢や状況、当人たちとの関係性のせいもあるのかもしれないが)いつもより感じるところがあった。でもその内容は「もっと人付き合いをしてもいいのかもしれない」ということだった。式云々以前の根本的な問題であり、我ながらとんでもない話であると思う。
 
 
 自分のことを社会不適合者だと感じたことはごまんとあるが、それでも自分が社会不適合者だと口にすることはなるべく避けようと思っていた。口にすると途端にカジュアルな感じがしてしまうというのもあるが(別に適合できていないことにプライドがあるわけでもないのでいいといえばいいのだけれども)それ以上に、不適合に適合(適応)している状態を「これでも大丈夫」と自分が肯定してあげないで一体どうやって立てばいいのと思っているからだ。もちろんそんなポーズはさすがにずいぶんと肩に力が入っているから、四六時中そんなふうにしていたら疲れてしまう。現にとても疲弊し続けてきた。だから僕はゆるやかに変わろうとしている自分を、思ったよりは好意的に受け入れているようなのだった。
 
 
 そんなふうにして扉を開けて生きていると、向こうからいろんなものが転がり込んでくる。同じように扉を開けた状態の人が入ってくるだけならば楽なのかもしれないけれど、閉じた状態なのに飛び込んでくる人というのもいて、そういうとき、本質的には閉じた人間である僕からするとお互い閉じたままでいれたら楽なんだけどねと思うこともある。それでも、僕の扉が開いていたからその人は飛び込んできたわけで…と考えると、やらなければいけないこともあるのかなということも感じるのだった。まあ人には開けてほしい扉とそうでない扉があるからね。それって外から判断するの、本当にむつかしいと思う。だからドアノブまで手をかけつつもやっぱりまごついてしまう。そう考えると、僕の扉だってまだ大きく開いているわけでもなさそう。そんな3月だった。