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Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

ノスタルジイなんて死んでしまえみたいなことを

な行 音楽

▼ノスタルジイなんて死んでしまえみたいなことを学生の時にわーわー言っていた記憶があって、それは今もそう思っている。そのことを思い出したのは、何かを話そう書こうとするたびに昔話ばかりになって自分もやっぱり歳を重ねたのだなと感じたその時だった。


▼「好き」で断絶を越えていく、なんて10年前の世迷い言、今思えば底抜けにポジティブで若さそのものだ。一応底流には「ひとの好みが細分化していくのはしかたないことだけど、それならそれで"好き"という気持ちだけでも持ち寄って、それを開放しよう」みたいな否定からのそれでもを忍ばせてはいたのだけれども、それがさらなる細分化と断片化に行きつくほかないのは自明の理。そんなことにすら気がつかないある種のヒロイズムなんてまさに若さそのものといっていいだろう。とはいえ、それを否定的にとらえたりはしない。ただ若かったのだなと思うだけだ。
 
 
▼好きよりも嫌いの方が感情のエネルギーが強いと思うし、人間、何が好きかよりも何が嫌いかのほうがその人の核となりうるのでは?という感覚もある。何かを話そう書こうとするたびに昔話ばかりになってしまうことの嫌悪がどこにあるかといえばそこで、つまりかつて忌み嫌ったノスタルジイを抵抗もなく、いやむしろ積極的にそこへ足を踏み入れて行こうとするその姿勢に強烈な老いを覚えてしまったからなのだった。嫌いなものがそうでなくなる、あれだけ嫌っていたのに気にならなくなる。これは大変な出来事である。煮物がだめだったのに食べられるようになった、とかそういうレベルの話ではないのだ。まるくなった、といえば聞こえはいいが(いいのか?)、なんだか色んな事に無頓着になっていくことのその表れ(現れ)のようでひどく残念な気分になるのだった。
 
 
▼未来は過去にしかないんだ、のようなこともずっと言っていて、このことは改めて日記に書かなければいけないことなのだった。僕にとってノスタルジィとは過去に生きることだから、過去の積み重ねで未来に行くという姿勢とは相いれないことなのだった。もちろん時としてそういう郷愁めいたもので慰められたり励まされたりすることもあるのが人間だから、今更それを全面的に敵視するほどピュアにも急進的にもなれはしないのだが、でも自慰めいたことを大っぴらに好んでいくことにはやはり抵抗がある。他の誰が僕の人生を見ているわけでもないのだが、他人が見ていなくてもぼくが僕の人生を常に見つめているので大事なことはちゃんと大事にし続けなければならないのだと今回の事態を前に改めて。



フレンズ「夜にダンス」
 
▼老いの話をしたので、ひとつ。シティポップが隆盛を極めて拡大解釈されていった末に、こういうところにたどり着くのだなというような感じがした(ポジティブにとらえている)。同時に20代のための音楽だなとも思う。そして自分がそこからどんどん離れて行くからかもしれないし、あるいは自分には10代がなかったからかもしれないがいずれにしても「10代のための表現」というものがどんなものだったかが分からなくなってきていることに気づく。そもそもそんなものないのかもしれないし、「10代」も「20代」も実体のないものなのかもしれないのだが。それでもこの30年のストラグルを思うに、さすがにそれは強く言いきれるものではないかと考えたりもするのだった。