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Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

わあっと歓声があがって

▼わあっと歓声があがって、…のような臨場感のある書き出しで始めると云々というのが、小学生向けの教科書などに書いてあることが多くて、だいたい子供たちと話すときにはその辺りは無視してまずは事実を正確に(ここでいう正確に、というのは読み手である相手にも了解してもらえるようにという意味だ)描写しましょうねという方向に持っていくことが多い。そこには様々な思想的背景とか職業倫理のようなものであるとか、とにかくそういったものが絡んでくるのだけれども、それは個人の持ち物だから今はとりあえず捨て置いておく。それよりも僕が触れておきたいのは必然性への思いなのだった。
 
 
▼小説的というか物語的に描くということに限らず、誰かが「その表現」をすることに必然性があるのであれば、彼は必ずやそこに行きつくだろう、あるいはそれを学ぼうとするだろうという思いがある。なんていうといささかロマンチストが過ぎるのでもう少し温度を下げて言うならば、何事も必然性や理由があればそうなるのだという信念がそこにあるのだ(じゅうぶんに温度が高かった)。
 
 
▼だが、やがてそこにたどり着くためには、書物と、文字とコミュニケーションが取れなければならない。そしてそれは当然読むことに限らず書くことによっても成立する。優先順位の問題と言ってしまえばそれまでだが、とにかくたどり着くための長い長い旅路の一歩目は事実のやり取りをベースにするところからがよいだろうと考えている。大枠さえ教えて身につけてもらえれば大多数の子はあとは勝手にあちこちにアクセスしていくし、そうでない子もアクセスキーを手にしているというそれこそ「事実」が重要だ。うまい文章はうまい人に教わってくれ、と思う。僕には僕のできることと、してあげたいことをすることしかできないのだから。
 
 
▼話はそれるが、子どもたちの文を日常的に読むことができる立場にいれて嬉しいなと感じている。僕に教わって僕に提出するものである以上、何となくの僕をそこには感じるのだが、そんなものは僕にしかわからないのでどうでもよい。子どもたちの文は、それぞれにそれぞれの人生があり、彼らは今その人生を生きているのだということを何度も何度も僕に思い出させてくれる。彼らは僕の知らないことをたくさん知っているし、僕の見ていないものをたくさん見てもいる。ああ、彼らの話が分かるというこの喜びよ。この「分かる」というのは情緒的なそれではなくて、何を言おうとしているのか、何を僕に伝えようとしているのかが分かるということである。最初は何がなんだかとっちらかっていたのに!熟練者は彼らの気持ちもそこから読み取るのかもしれない。残念だが、僕には恐ろしくてまだそのようなまねはできない。読んでいるときに伝わってきたかのように錯覚する「気持ち」はそれは他でもない僕の気持ちでしかないのだ。読み終えると、僕は君の書いたことを心底楽しんで興味深く読み、書かれてあることは僕によく伝わっている、だからこそ僕はここに書かれていることに対してこう考えるしまた考えることができた。というような話をする。
 
 
▼「型」が絶対に必要だと思う。だがそれは最低限の大枠だ。型をなぞる段階を終えたら、型がなぜ伝わるのかのその要素を抜き出して話し合う。それで血肉になればあとはなんとでもなるのだ。だから自由に書けとか好きなように書けなどとは言わない。でも、嘘を書いてもいいよ、とは言う。嘘を書かねばならないときは嘘を書けばいい。こんなこと書いてもいいのかな、と迷ったら遠慮なく書きなさいとも言う。どうせ読むのは僕だけなんだから。そのうち読む(と想定される)対象を様々に変えながら書いていいことと悪いこと(それは考えていいことと悪いこととは別だよ)の微調整に入ればいい。少なくとも僕の前でそんなことを気にする必要はない。反社会的なことや道徳的に疑問符がつくようなことも、それが「書かなければならないこと」ならば書けばよい。「書きたいから」はもう少し考えてみてね。なぜなら、読むのは僕なのだから。
 
 
▼横道の方が長くなりそうなので元に戻る(個人の持ち物だから今は捨て置く、と言ったくせに話し始めているし)。必然性への思いの裏には、自分のしていることに理由や説明を欲しがる嗜好があるように思う。僕は自分がなぜそれをしているのか、ということが分かると嬉しいと感じる。だからそれをできるだけ見つけたいし一つでも多く説明したいとも考えている。必然性、というのはそのひとつだ。わたしがそれをするのはそれをしなければならないからだ…甘美な響きである。もちろん必然性にも理由が必ず付いて回る。それは自らの行動の背景、その極致ともいえるだろう。そこに憧憬を抱くなというのが難しいというものである。
 
 
▼ちなみに伝わるように、とか言っている僕の日記が読みづらく伝わりづらい(15年くらい書いているのに!)のには理由があって、それはこの記がそもそも誰に向けられているかというと、他でもない自分であり、どこかにいるかもしれない自分のような人にだからである。僕だって場や立場が違えば全然違う書き方をするんだよ。ホントだよ~。