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Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

2016年1月3日の日記

(旧)日々

▼瞬間に対するオブセッションの出所をよく考える。どうやったらそこにとどまれるのだろうということと同じくらいには興味がある。その時々によって様々な答えが出たり忘れたりするわけだけれども、今朝みじたくをしながら「今を大事にせずに過ごしてきたその反動なのでは?」ということを思った。いつも、先のことばかり考えて不安になったり憂鬱になったりしてしまう。楽しいことは先取りしないのにね、というのは前も書いたか。そうやって今をないがしろにしてるから、瞬間のことが気になって仕方ないのではないか。
 
 
▼自分が考えていることとか、選択した行動とかそういったものに対して「どうしてそういうことを考えてしまうのだろう?」と考えている人ってどれくらいいるのだろう。自分の意見(それは自分の意見に見せかけて他者の意見だね、というのが最近多いですね)の根拠としての「なぜそう思うのか」とは意匠が決定的に異なる「わたしについてのなぜ」を。日記書きには比較的そういう人が多そうだけど…。日記は自己との対話だからねえ。
 
 
▼そういう意味では僕は自分に対してものすごく興味があるともいえる。そうしたことが、もしかするとある部分においては自意識過剰と言えるのかもしれないけれど、むしろ自分に対して興味が増せば増すほど、僕の神経症的な自意識はどんどん希薄になりつつあるような気がする。それはきっと、自分の範囲を正しくつかむ過程だから。俗に自意識過剰と呼ばれるようなもろもろは、実際のところは(ありもしない)他者意識が過多だという話だと思う。自意識過剰の反対は、ほとんど自己に注意を払わないような人とされるけれども、それを「自分に対する意識が希薄」つまり「自分の範囲を正しくつかむことができない」という風にとらえれば、その不具合を同根にして、症状が他者意識モリモリの方向で出るか、自堕落な方に出るか。違いとしてはそういうことでしかなくて、実は同じものなのではないか。
 
 
▼自分の範囲をつかむ、というのは本当に大切で、とびきり難しいことだと思う。ちょっとしたことで感情が高ぶってしまったりするのも、こういうことが原因にありそう。分をわきまえるとはまた違うんだよな。とりあえず、自分の範囲を正しくつかむとだけ乱暴に置いておこう。