Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

2015年12月19日の断片日記

▼10代のための、とか高校生のための、といった言葉が冠されている本をわりとよく読むようになったのは、なにもコンプレックス(コンプレックスだ?)が刺激されるとかそういう話ではなくて、そういう「入口」に戻った方が良いことがあまりに多いのではないかと思ったからだ。そして、子供たちにオススメを問われたときに、「好きなものを読んだらいい。読むべき本なんてこの世にはない。自分にとって読まなければならない本は適切なタイミングで向こうから語りかけてくる。そのためには、その時の気分に忠実に活字にアクセスを続けることが重要。「読める」状態に、本の語りかけてくる声が聞こえる状態にはなっておくんだよ」みたいな内容以外の具体の解答を用意したいというのもある。切羽詰まった人もこの先現れるかもしれないので。
 
 
▼それで、いまは『高校生のための文章読本』を読んでいるのだけれども、これがなんだか本そのもののテンションが高くて狼狽している。とりあげられている文章の多くが断片であることからくるスピード感や、戦争関係の文章が導入部にいくつかおさめられているということもそのハイテンションに影響を及ぼしているのだろうか。いずれにしても言葉を紡ぐということに対する切迫感、緊張感というものが確かにそこにはあって、分冊の「解説」が(高校生向け、と銘打っているからね)比較的マイルドであることで何とか中和されているが、その濃さにあてられて、正直これは日記が書けなくなりそうだと少し思ったものだった。
 
 
▼そんな極端な、というふうに思われるかもしれないが、現にそれに近いことがちょっと起こってはいたのだ。短歌に興味を持ちだして、いろいろ触れてみようと思って歌集や歌論などをいくつか読んでみたり、テレビ番組を毎週録画しては繰り返し見たりしてみたのだけれども、触れれば触れるほど分からなくなっていた。3つとか4つとか、見よう見まねで作ってみて、自分の手で生み出せたこと、そして世界を見る視点が1つ増えたことなどをとても喜んでいたのだけれども、同時にそれらは自分の「見えてなさ」とも向き合う作業になってしまって、混乱して、動揺していた。もちろん「奥深い世界だなあ」と面白がるポーズの取り方を選ぶことだってできた。興味を拡張したのは詠みよりも読みの部分だったわけだし。それでもあの喜びと楽しさは、世界に揺さぶりをかけた出来事として、決して小さくないインパクトを自分の中に残していた。それは大事にしなければならないと思っていて、そのこともストラグルに拍車をかけていた。とりあえずは何でもいいからまたカジュアルに1個出しておかないとまずい。そういう焦りみたいなものがあった。早くしないと、たぶん2度と楽しめなくなってしまう―だから、昨日のあれは結果的にただ31文字になってくれただけのものなのだが、僕にとってはとても意味のあるものだった。

 
▼先の話に戻る。鬼気迫る表現やその表現でなければならなかった言葉たちに触れるたびに、自分の書いているもののわけのわからなさに食いつぶされそうになっていく、というのが実感としてあって、それは日々の中で少しずつ堆積していくものなのだ。それでもうまくやりおおせていける程度には日々に流されていたのだけれども、今日こうしてこの本を前にして連続して「圧」にあてられてしまうと、とたんに処理が追いつかなくなってしまう。結果的にその危険を知らせる信号をも一緒くたにして「テンションの高さ」として生成・受容する。そしてそのせいで、自分は日々の楽しいことや悲しいことの全てが「辛い」からそれを文に起こすことで異化してなんとかやっていく、そのためだけに日記を書き続けてきているのに、その頼りなさが浮き彫りになってしまって、自家中毒に陥ってしまうのだった。

 
▼つまり、必然性がそこに欲しいと思っているのだ。書かなければいけないという意味での必然性は僕にはある。そうではなくて、その言葉でなければならない、それを言わなければならないという強い必然性が。書き始めてから15年くらい経っていまもなお書くことそのものが目的で、たぶんそれはこれからも続いてはいくのだろうけれど、「書かなければいけないから」書くだけでなく、「書かなければいけないことばがあるから」書く、だとよりよいのだと思う。そしてそれが何より「自分のために」そうでありつづけてほしい。のだった。

高校生のための文章読本 (ちくま学芸文庫)

高校生のための文章読本 (ちくま学芸文庫)