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Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

2015年7月27日の断片日記

▼その日僕は新宿の金を払う公園に来ていた。天気も良く、日差しも強く、死ぬかと思った。さすが有料で園内はよく整備され、みんな行儀よく過ごしていた。僕は汗だくで歩きながら木陰で休んだり、ラベンダーやスイートピーを見ながらうっとりしたりしていた。ここ数年で「花を見に行く」という機会が増えた。別に詳しくなったわけでもなく、ぼんやり眺めてきれいだなあかわいいなあと思うだけなのだが。花を贈る機会も増えた気がする。花を贈るのはむつかしいと思う。贈ったあとのことも考えながら選ぶとなるとなおさらだ(贈り物は花に限らずそうあるべきだが)。枯れたら捨ててね~くらいの軽さを出したいと思いつつ、世話の手間のことを考えるとプリザーブドフラワーがいいのかな?とか。枯れちゃったんだからしょうがないよねという余白を残してあげるべきか、日常に入り込み過ぎないその距離感を大事にするか、だ。
 
 
▼地上を走る地下鉄で西日を浴びながら、外国人(というか旅行者?)や年輩の方がおおめに許容されているパーソナルスペースの侵害・距離の詰め方を思っていた。基本的には受け手側の姿勢に多くをゆだねられている気がするが、距離を詰めてきた者の(見た目での)属性によってその具合いにはかなり幅がある。それは経験で身につける部分と本能的なものがあるような気がする。距離を詰められたときあるいはそのような場面を目にしたとき、僕がもし詰める側の立場なら?経験と本能のそのどちらで忌避される?と考える。考えているうちに、次の目的地に着く。
 

▼気づくと、僕は食事をするために並んでいた。僕にしては珍しいことだ。いつもだったら並ぶくらいだったら一食抜いても構わないと思うくらいには並ぶのが嫌いなのだが。いや他のもの食えよ。別に「我慢する」ことが嫌いなわけでも「待つ」ことが苦手なわけでもない。どちらかと言えばかなり待つ方だとも思う。自分でも並ぶことの何がそんなに嫌なのか分からない。君とは最初から並ばない。予約するか、待たない時間を調べておく。自分が並ぶのが嫌いだというのが第一で(正直な話ね)、待たせたくない、というのが第二か。待つ時間も楽しいねなどと思う季節は初めからとうに過ぎ去っていたのだ。
 
 
▼以前に来た時よりも1品多く頼んでいて、もともと値段が高いのにえらいことですよとか思いながら食しているさなか、あちこちから聞こえてくる会話に耳をそばだてていた。そのほとんどが他愛もない会話で、情報ではなくて感情に重きを置いてやりとりをしているものか、そうでなければ「場」を構成するために展開されている以上の意味をもたないものだったように思う。というか、プライヴェートでの会話なんてそんなもんだろう。近くにいた若い女性たちの会話が気に入った。本当に普通の、誰にでもあるような話だった。僕はこういう話を聞くのが好きなのだなと思った。そういうのを一方的に展開してもらってほーんとかふーんとか言っているのが好きなのだ。そして本当にほーんとかふーんとか思っているのだ。決して適当に言っているのではない。
 
 
▼教壇に立つ仕事をしていると話すことが重要だと思われるかもしれないが(実際そういう指導者もいるだろう)、僕はどちらかというと聴くことに重きを置いている。もっといえば見ることに、だろう。このあたりは人それぞれ、だ。


▼帰りの電車に揺られながら、なんで今日、食事に金を出そうだなんて思ったんだろうと考えていた。明日君に食べさせたいお菓子のために決して少なくはないお金を使うから、今日は自分のために使ったのだ、という言い訳を思いついた。さすがに下品過ぎて笑えた。揺られているうちに朝からうっすらと続いていた頭痛がひどくなってきた。車内で赤ん坊が泣き始めて、こういうときのお決まりで僕は「ああ、親御さんは大変だなあ」と思うのだが、頭痛のせいで気持ちと表情が全然リンクしなくて気持ち悪かった。それはさておき、結局、人が自分の人生を生きていると信じるのは、誤謬でしかないのかなと思いつつ、自分の人生を生きるのは自分でしかないのだなと思った。生きるというか、責任を持つというか。僕はずっと自分のことに無責任でふまじめだった。確かに必死だったけれども、人生をちゃんと生きるのと辛さを感じることとはまた別の話だ。何度考えてもああ、赦されていたのだなと思う。最寄り駅に着いたころに聞こえてきたのは「強い気持ち・強い愛」で、そうだよなあと感じたのであった。