Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

セルフリスペクトへの反転を目指して

すべての女子を肯定する。その人間存在そのものではない、女性や男性あるいはセクシャルマイノリティでもいいかもしれないが、とにかくそうしたものというのは、本来的にはタグの1つでしかなく、否定も肯定もなくただあるべきだとそう思うのだが、実際そうでもない世の中であることは実感としてよくわかる。実際、僕はぬきさしならなくなった人間の物語を好むが、その点において「女子性」特有のストラグルは僕の消費の対象になってしまっている。(そういう人は一定数いると思っている)反対に男のルサンチマンにはさほど興味がないし、共感もしない。僕は確実に持たざる存在だし、日陰者であるにも関わらず。それはややもするとそれらの言説を相対化してとらえることが「そうであるがゆえ」できないのかもしれないし、自分がどう考えるかで世界が規定される以上、自分の感覚を上塗りして補完するためにネットをつかうことに対して慎重でいようとしていることの表れかもしれない。その傷口を優しくコーティングすることとネットのそれは相性が良すぎるから、慎重すぎるくらいがちょうどいいだろう。せっかくの世界への入口、知っているものばかり見ても仕方がないしね。いずれにしても、自分と神様にしか興味がないぐらいの心持でいるのが正解であるような気がしている。

絶対少女

絶対少女


そんなことを考えながら彼女の肯定を聴く。それは決して温かいものではない。カーネーションの直枝氏によるプロダクションが丸みを帯びたポップの空気感を持っているからこそよりそう感じる。描かれる日常の悲喜交々の合間から漏れ出す「普通になりたい」との叫びが、反転して女子たちのすべてを肯定する。音楽なんてどうでもいいという態度を時折見せる彼女が今後いつまで歌い続けるのかは分からないが、(前作含め)ここに並ぶ楽曲と1曲のカバーは「今」歌わなければならなかった音楽であることは疑いようがなく、そういうものが評価されなければならないと僕は思う。


中盤。パーティの後に、と題された曲に居並ぶつぎはぎの世界。over30おばさん、進化する豚…それらを包む最後の優しいコードのストロークとそこからこぼれおちるノイズ。その刺々しさと方法論は巣鴨置き去り事件と画家とを邂逅させる「青い部屋」でのピアノ弾き語りでピークを迎える。(この楽曲で用いられる投げかけ方は距離が適切ですばらしいと思う)


終盤のハイライト、今作の最良の曲の一つ「君と映画」について彼女がいう

『好きな漫画とか映画とかを神様みたいに尊く思う気持ちと、すきな作品を紹介するときの自分の神様をみせあいっこするみたいな気恥かしさと、みてきた映画とか漫画とかテレビとかだけで自分が形成されてたらどうしよう、だれかの思い通りじゃん、誰かを憎いと思ったり、愛しいと思ったりすることすら操作されているかもしれない怖い!っていう恐怖と。そういう触れる芸術の偉大さに自分が完全に食われないように「君がコンビニまでの道 何度わたしをふりかえった わたしの幸せ」こういう些細で大切なことを忘れちゃいけない』

これだけですべてかもしれない。この感覚は絶対に正しい。そして同曲の「ロングもいいけどショートもいいね オリジナルなんてどこにもないでしょ それでも君がたまんない」のライン。愛だろ、愛。僕は結局さまざまな芸術と、君とで規定されている。もたざる者が人間賛歌を世に問うことの意味を想う。
 
ラストの「I&You&I&You&I」のカバーも素晴らしい。これはボーナストラックではなく、あくまで本編の最後を飾っている。そう、そこには必然がある。君を指していた「You」は「I」を出発し、乱反射を経ていつのまにか複数系の「You」へと変容する。
 
アイドルが内気なワタシを歌うことで男性の欲望に応え少女たちの背中を押す時に、自分の中にある数少ない「共感」の引き出しが音を立てるようなそんなねじまがった育ち方をした僕だって、いつだって普通になりたかった。当たり前のことを当たり前にできる人になりたかった。でも、なろうとしなかった。だから、こんなことになっている。それでもいいと大森はうたっている。その代わりのものを引き受けられるならと。そう、僕らの世界はいつだってグロテスクで美しい。すべての女子に対する絶対的な肯定を前に、そんなことを考える。では彼女の音楽を愛した僕を誰が肯定する?分かっている。そんなもの、自分でケツをふくしかないのだ。「今日こそはという毎日を君も重ねてきたんでしょ」男子たるもの、泣いてばかりもいられまい。