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ちくま哲学の森 1 生きる技術

ちくま哲学の森 1 生きる技術

ちくま哲学の森 1 生きる技術

生きる技術。生きるためには技術がいる。その人生のためだけの技術が。これは生き方指南書などではなく、それぞれがそれぞれの為すべきことに真摯に向かい合っていることの記録だと思う。

これがいわば、孤独というものの真のすがたである。孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独は、のがれがたく連帯のなかにはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気を持たぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。
この連帯は、べつの条件のもとでは、ふたたび解体するであろう。そして、潮に引きのこされるように、単独な個人がそのあとに残り、連帯へのながい、執拗な模索がおなじようにはじまるであろう。こうして、さいげんもなくくり返される連帯と解体の反復のなかで、つねに変わらず存続するものは一人の人間の孤独であり、この孤独が軸となることによって、はじめてこれらのいたましい反復のうえに、一つの秩序が存在することを信ずることができるようになるのである。
(「ある<共生>の経験から」石原吉郎 p.201-202)

狂人は正気の人間の感情や愛憎を失っているから、それだけ論理的でありうるのである。実際、この意味では、狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。
(「脳病院からの出発」G.K.チェスタトン p.314)

そして「権利のための闘争」を読みながら、僕は自身の権利感覚に疑義を投げかける。僕が「誇り」と繰り返すものと道化としての生き方の同居に揺さぶりをかけてみる。僕は解説がいうところのシェークスピアに出てくるような高尚な道化としての生き方に心酔しているのかもしれない。だからこそ、こうした揺さぶりと憂いと、とびっきりの哀しさは、僕なりの、僕のための、生きる技術として必要なのである。