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Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

Wowee Movie 1

20170305 シカゴ

ミュージカル部分は妄想、というのはそれだけでよい印象だ。少し観疲れするかな、と思っていたのだけれども、最終的にはゼタに全部持っていかれてしまった。舞台経験者とのことだった。


20170305 『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?
打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? [DVD]

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夏という季節に感傷を抱けるのは、この物語の登場人物(のうち誰だっていいのだ)たちのような経験を10代の頃にしたものだけの特権なのではないかと思った。少年と少女が駆け落ちをするシーンがとても好きだ。いつだって女の子は男の子より先にいて、僕らをさっさと置いて行ってしまう。その美しさをあらためて感じた。のだった。
 
 
20170307『ミッドナイト・イン・パリ

僕にだって1920年代への憧憬、あるいはパリへの憧憬というのはあるにはあるのだけれども、あるが故にその「合わなさ」が目立ってしまった。もちろん、ほほっと笑ったところもあったよ。ほほっ。


20170308『桐島、部活やめるってよ

桐島、部活やめるってよ(DVD2枚組)

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スクールカーストの話とかいう誤った(誤ってもないのだろうか)情報のおかげで見るのが遅れてしまった。まったく、後悔である。桐島の不在に翻弄されながら「意味」を求めてさまよう者たちの姿。これはまさしく『ゴドーを待ちながら』だし『嘔吐』だし、というのは良く分かるし、僕にだって言いたいことはいろいろある。そういうものたちが、見終えた直後よりもそこから時間がたてばたつほどふつふつとわきあがる。そのことが、今作が良いものであることの表れである気もする。持つ者の寄る辺なさと持たざる者の強さ。僕としては宙ぶらりんの苦しみがよく分かるから、そう、確かに持たざる者であるにもかかわらず、「全てがあるけど、何にもない」を体現する宏樹という存在に強烈にシンパシーを覚えてしまう。それはきっとこの作品が単なる青春映画ではなく、紛れもない実存主義の映画だからなのだろう(「探す」から「つくる」への踏み出しを、青春との決別とらえることももちろんできるが…)

出演陣の演技は総じて見事なものだったが、松岡茉優の嫌な女っぷりと、橋本愛の閉ざされた影は白眉であった。

ノスタルジイなんて死んでしまえみたいなことを

▼ノスタルジイなんて死んでしまえみたいなことを学生の時にわーわー言っていた記憶があって、それは今もそう思っている。そのことを思い出したのは、何かを話そう書こうとするたびに昔話ばかりになって自分もやっぱり歳を重ねたのだなと感じたその時だった。


▼「好き」で断絶を越えていく、なんて10年前の世迷い言、今思えば底抜けにポジティブで若さそのものだ。一応底流には「ひとの好みが細分化していくのはしかたないことだけど、それならそれで"好き"という気持ちだけでも持ち寄って、それを開放しよう」みたいな否定からのそれでもを忍ばせてはいたのだけれども、それがさらなる細分化と断片化に行きつくほかないのは自明の理。そんなことにすら気がつかないある種のヒロイズムなんてまさに若さそのものといっていいだろう。とはいえ、それを否定的にとらえたりはしない。ただ若かったのだなと思うだけだ。
 
 
▼好きよりも嫌いの方が感情のエネルギーが強いと思うし、人間、何が好きかよりも何が嫌いかのほうがその人の核となりうるのでは?という感覚もある。何かを話そう書こうとするたびに昔話ばかりになってしまうことの嫌悪がどこにあるかといえばそこで、つまりかつて忌み嫌ったノスタルジイを抵抗もなく、いやむしろ積極的にそこへ足を踏み入れて行こうとするその姿勢に強烈な老いを覚えてしまったからなのだった。嫌いなものがそうでなくなる、あれだけ嫌っていたのに気にならなくなる。これは大変な出来事である。煮物がだめだったのに食べられるようになった、とかそういうレベルの話ではないのだ。まるくなった、といえば聞こえはいいが(いいのか?)、なんだか色んな事に無頓着になっていくことのその表れ(現れ)のようでひどく残念な気分になるのだった。
 
 
▼未来は過去にしかないんだ、のようなこともずっと言っていて、このことは改めて日記に書かなければいけないことなのだった。僕にとってノスタルジィとは過去に生きることだから、過去の積み重ねで未来に行くという姿勢とは相いれないことなのだった。もちろん時としてそういう郷愁めいたもので慰められたり励まされたりすることもあるのが人間だから、今更それを全面的に敵視するほどピュアにも急進的にもなれはしないのだが、でも自慰めいたことを大っぴらに好んでいくことにはやはり抵抗がある。他の誰が僕の人生を見ているわけでもないのだが、他人が見ていなくてもぼくが僕の人生を常に見つめているので大事なことはちゃんと大事にし続けなければならないのだと今回の事態を前に改めて。



フレンズ「夜にダンス」
 
▼老いの話をしたので、ひとつ。シティポップが隆盛を極めて拡大解釈されていった末に、こういうところにたどり着くのだなというような感じがした(ポジティブにとらえている)。同時に20代のための音楽だなとも思う。そして自分がそこからどんどん離れて行くからかもしれないし、あるいは自分には10代がなかったからかもしれないがいずれにしても「10代のための表現」というものがどんなものだったかが分からなくなってきていることに気づく。そもそもそんなものないのかもしれないし、「10代」も「20代」も実体のないものなのかもしれないのだが。それでもこの30年のストラグルを思うに、さすがにそれは強く言いきれるものではないかと考えたりもするのだった。