Wowee Zowee !

わーうぃーぞーうぃー!

Wowee Movie 4

20170519 ウォールフラワー

ウォールフラワー スペシャル・プライス [DVD]

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ティーンズ・ムービーのくくりにしておくにはもったいない。若者のことを描写しながらもそれが事象ではなくしっかりと人生を描いている点が素晴らしいのだ。優しい人が間違った相手とばかりデートしてしまうのはそれが自分に見合うと思うからということが語られていて、なんということだと思った。
 
 
20170527 リトル・フォレスト夏・秋

リトル・フォレスト 夏・秋 [DVD]

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日記に書いたのでここでは割愛。身体性を経由した映像の心地よさ。記録と記憶について。
 
 
20170527 ソーシャル・ネットワーク

デヴィッド・フィンチャーが好きなのだ。 それはさておき、孤独な成功者の話ではあるけれど、ラストの更新ボタンの連打が全てのような気がする。ときどき思うのは「深夜に起きている人がいることを確認したい欲」のようなもののこと。それは正しく寂しさの発露なのだろうと思う一方で、ティーンエイジャーの頃の僕のその「欲」はラジオという媒体に向けられ、今のそれはネットに向けられていることを考えると、そこにはグラデーションがあるのだなと。
以前、ほむらさんが若者の驚異への親和性は死への接近で、年齢を重ねた人間の共感への共鳴は生き延びるための方策であるというようなことを言っていた記憶がある。寂しさに端を発した「欲」をどのようなメディアに託すかというのはまさしくこの驚異と共感の話に通ずるものがあると考える。あなたもまた起きている、ということで驚異と共感のどちらを獲得できるのかは何を媒介して得るかによって変わってくるだろう。ラジオの向こうには世界があった。ネットの向こうにはわたしのせかいの輪郭だけがある。だが共感すらも死へ通じる道でもあると気づいてしまった僕らは、果たして真に生き延びるために何を選択すべきなのか。でもその答えは再度ほむらさんの言葉を借りるなら「生き延びる」ではなく「生きる」ことにつながっているのだと思う。皮肉な話だ。話か?

 
20170604 パルプ・フィクション
 

パルプ・フィクション [Blu-ray]

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サイコーだった。ぜ。

 
20170605 リトル・フォレスト冬

リトル・フォレスト 冬・春 [DVD]

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橋本愛松岡茉優の組み合わせが好きだ。冬ということもあって屋内のシーンも多く、2人のやり取りがたくさん見られて幸せ。プライベートでも親交があるらしく、それがプラスに作用している。『桐島~』のときも感じたが、この松岡茉優という女優さんはとても力のある人のように思える。
「小森で生きて行く覚悟を決めたから、この人たちはとても楽しそうなんだ」というような表現が出てきてハッとする。僕は導かれるままふらふらとトーキョーへ出てきた類の人間で、そこに確たる意志はなかった。でも地元の空気に馴染めなかったこともまた確かだった。どこで暮らすにしても覚悟が必要だ。そのことから目を背けてきたから僕はいつまでもこの街で「暮らしている感覚」がないのだろう。いち子が様々な農作業のタイミングに重ね合わせて「私もここを出るのが早すぎたんだ」と言うセリフが彼女の気持ちとはまた別のところで響いてくる。
エンディングでの映像。『夏・秋』ではいち子の自転車のシーンが使われていて、確かにそれは「動」だった。『冬』の映像は「静」で、でもだからこそ舞い上がる雪とそこにたたずむいち子の姿に感じるものがあった。これは僕にとってとても好きな作品なのだな、と素直に言える。
 
 
20170608 アメリカン・ビューティ

アメリカン・ビューティー [DVD]

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もうケヴィン・スペイシーがどうしてもフランク・アンダーウッドにしか見えなくなってしまっているのでどうしたもんかと思ってしまった。
登場人物それぞれが長い欠落の時間を経て、人生を取り戻そうとする物語。主人公であるレスターが世界にあふれる美に圧倒されていたことが全ての始まりだったことがラストで語られる。彼の最期の表情に宿る満たされた思いは、近くにあった美にようやく気付けた、自分は何も失ってはいなかったのだという歓喜の境地だと思うのだけれども、ビニール袋が舞う映像を見て美を感じていた隣人リッキーにとっては、レスターの死がまとっている寂寥感を背景にした幸福な満足感、それこそがビューティだった。レスターの妻がまきちらすアメリカのハリボテ感はかの国の文化的な偉大さを逆説的に強調するかのようなものをはらんでいて、僕はアメリカというものに対する憧憬を新たにするばかりだ。

5月の中の人

 新緑の季節、それが「新」かどうかはさておいて「緑」であることが僕には重要だった。陽光がその隙間から差し込む光景をとにかく好み、ああ生きてるなと感じるこの5月を愛おしく感じ大切にしてきたはずだった。それでも今年の5月は控え目に言っても最悪だったのは間違いない。それは主に新しい職場のせいなのだけれども、天気もすっきりしない時間が長く、湿度が高い日も目立って不愉快だった。気象情報では「晴れ」と言っていても、これが晴れなら曇りの日なんかないよねというような日もあって、気分の悪さはそのせいもあるかしらと考えた。それでも気分と機嫌は別物と考えなければと意識して過ごした。ひどい言葉で罵られたりもしたけれど、思いのほか上機嫌だった気はしている。
 
 
 そのことを可能にしたのは月頭の連休の過ごし方で、恒例行事として西の方に出かけては、知らない街の知らない道の空気を吸って、酒を飲んで、街に紛れて過ごした。その余韻のようなもので何とか2本足で立っていた、そんな感じがする。
  
 
 月の後半はどうにもならなさと戦いながら、僕が傷つけてしまった人たちのことをよく考えていた。無自覚に鋭利なものを振り回していたことに気付くのはきっと振り回したそれが相手だけではなく自分をもめためたに切り刻んだあとの話で、痛みを感じるのは何も傷ばかりのせいではなくその事実と過去と未来とが一斉に芽吹くからなのだろう。それでも泣いたりわめいたりする権利は僕にはない。日記の方で「傷つけたい」という願い未満の願いと、「傷ついてよ」という吐露の間には何光年にも渡る長い距離が横たわっていて、それが果たされたときに互いの決定的なまでのすれ違いが顕在化する、というようなことを書いた。そしてそれは君にもあの娘にもこのコにも関係のないことだ。罪を受け入れ、ノスタルジーに中指を立てていくしかない。
 
 
 愉快なこともあった。やはり僕は若い人が様々にチャレンジするのをサポートできると幸福を感じるのだということを改めて感じたことや、フィジカルの声がまた聞こえてきたこと、読んだものや見たもの、聴いたものはどれもこれも素晴らしかったことなど。そして思い返せば昼間はともかく夜の風は気持ち良かった。そんな5月だった。